小平奈緒さんが2018年平昌(ピョンチャン)オリンピックで「金メダルに最も近い」との評判が鳴り止みません。
今や「絶対女王」との呼び名も高く、日本女子スピードスケート界で大注目の存在。
多くの国民に期待されながら、ここまで数々の栄冠を勝ち取ってこられた小平奈緒さんって
一体どのような経歴の持ち主なのでしょう?
ということで今回は
小平奈緒の経歴は?
小平奈緒は出身地もすごい!
小平奈緒はスポンサーもコーチもすごい!
など小平奈緒さんの魅力に迫ってみました。
スポンサーリンク
小平奈緒の出身地や経歴などプロフィール
小平奈緒のプロフィール
本名:小平 奈緒(こだいら なお)
生年月日:1986年5月26日
出身地:長野県茅野市
血液型:A型
身長:165cm
趣味:オランダ語・写真
好きな科目:英語
所属:社会医療法人財団慈泉会 相澤病院
小平奈緒の経歴は?
中学校
茅野市立北部中学校
高校
伊那西高等学校
大学
信州大学教育学部 生涯スポーツ課程卒業
高校時代にすでにスケートで実勢を出していた小平奈緒さん。
高校を卒業する段階で、スケートの名門である有力企業からスカウトを受けましたが
教員になる夢を捨てきれずに信州大学への進学を決めたそうです。
もちろんスケートは現役で続けながらも、
驚くことに大学での単位履修への特別な配慮は一切受けず実力で卒業したそうです。
言うまでもなく信州大学は国立大学。
文武両道とはまさにこのことですよね!
ちなみに奈緒さん、3歳のときにスケート靴を履き小学生から本格的にスケートを始めています。
中学2年生のときには全日本ジュニアで中学生王者に輝き、
高校進学後はインターハイで500m・1,000mの2冠を達成!
さらには全日本ジュニアも制覇という偉業を達成しています。
当時から先頭を走っていたことを思えば、この頃からすでに「絶対女王」の素質を持ち合わせていたんですね。
小平奈緒は出身地もすごい!
小平奈緒さんの出身地は長野県茅野市。
長野県と言えば、3,000m級の山々に囲まれているのですが、県全域の標高が高いことでも有名なんですね。
中でも、奈緒さんの出身地である茅野市の市役所の所在地は 801.6mで、市役所の標高で見ると日本で一番高いんです。
801.6mと言われてもなかなかピンと来ませんよね。笑
ちなみに日本一高い建造物が東京スカイツリーで、こちらが634m。
茅野市の標高がいかに高いか?…これで少しイメージしてもらえたんじゃないでしょうか?
標高の高い茅野市で幼いころから雪や氷に触れ合い、心肺機能の強化にも良い影響を得ることのできた環境が現在の奈緒さんを育てたのかも知れませんね。
そんな茅野市で幼少期の奈緒さんを育てたのが父親の小平安彦さん。
お父さんはスケート競技の経験はないものの奈緒さんが3歳のときに初めてスケート靴を履いて以来、中学生までの間、コーチ役として一緒に練習していたそうです。
プロのコーチではなかったお父さんは
近所の実業団選手がリンクに来るたびにその練習を一緒に見ながら練習方法を研究。
奈緒さんが小学生になると今度は一切指示も出さず、奈緒さん本人に練習メニューを作らせたそうです。
お父さんは当時を振り返りこんな風に語られています。
「人から簡単に教わるばかりでなく、大事な事は自分で発見して行くプロセスを学んでほしかった」
スポンサーリンク
小平奈緒はスポンサーもコーチもすごい!
そんな奈緒さんですが大学卒業時に内定していた企業への入社が白紙となる事態に見舞われました。
奈緒さんの絶体絶命の選手生命の危機を救ったのが、
現在の奈緒さんの所属先でありスポンサーでもある相澤病院です。
実はこの相澤病院、小説「神様のカルテ」(夏川草介著)のモデルで、櫻井翔や宮崎あおいが出演し映画化されて話題になった有名病院なんです。
|
奈緒さんの危機を救うきっかけを作ったのが
大学時代からの指導者である、結城匡啓(ゆうき まさひろ)コーチでした。
この結城匡啓、金メダリストの清水宏保選手を育てたことでも有名ですが、
すごいのはその指導力だけでなく、奈緒さんにスケートを続けさせたいという情熱でした。
奈緒さんが信州大学時代に怪我の治療のため訪れた相澤病院に
結城コーチがスポンサーになってほしいと相談したことから事態が大きく動きます。
直談判した結城コーチもすごいですが、
以前治療に訪れただけの女子大生を受け入れて救うと決断した相澤病院も素晴らしい決断ですよね。
実は最初の面接が3月末というギリギリの時期だったそう。
奈緒さんの同期 約100人は4月1日付入社ですが奈緒さんだけ16日付の入社。
まさに崖っぷちで救われて今の奈緒さんの活躍があるんですね。
このような経緯で所属が決まったので、
相澤病院にはスケート部があるわけもなく、所属するアスリートも奈緒さんだけ。
それまで奈緒さんは電車で1時間ほど離れた長野市のスケートリンク「エムウェーブ」を拠点に結城匡啓コーチの指導を受けていました。
相澤病院への所属が決まった直後は、午前中2時間ほど病院で働いて長野市へ移動、午後から練習するプランだったそうですが、
ここでも相澤病院の英断、
「そんな生活では両方ともダメになる。」
「2010年のバンクーバー五輪までは競技に専念してもらおう。」
「もし目標が叶わなかったときは、ウチで働いてくれればいい」
とスポンサーとしての取組方針を約束されたそう。
その後、バンクーバー五輪に初出場を果たし銀メダルを獲得したのは多くの人が知るところですよね。
帰国後は恩返しに銀メダルを持って相澤病院の病棟内を回り、
多くの患者さんやその家族に勇気と感動を与えたのも有名な話しです。
相澤病院では奈緒さんから勇気や元気をもらっている患者さんが今でもいっぱおられるそうです。
小平奈緒さんの好きな言葉はガンジーの名言
「永遠に生きるかのように学べ、明日死ぬかのように生きろ」
他人と比べるのではなく、あくまでも自分のスケートを追求し続ける姿。
常に目の前のレースで全力を出すことに集中する姿勢。
「結果だけではなく、多くの人にどんな影響を与えるか?」
「多くの人の心がどう動かされるのか?」
「これが、目指しているところなので、そういうレースができればいいなと思います。」
こんな風に語る小平奈緒さんの性格やお人柄そのものが
栄冠を獲得し続ける力の源であり、多くの人から愛される理由なんじゃないでしょうか?
小平奈緒さんの益々のご活躍を応援していきたいですね!
スポンサーリンク